蛇窪の由来を探る
いろいろ調べてみると、現在、品鶴線と大崎支線が合流する所が旧蛇窪信号場だったという説明は、少々正確性を欠いています。何故なら、大崎支線の0キロポストは西大井に近い位置にあるからです。実は大崎支線は現在の東急大井町線の下あたりからしばらくは品鶴線と並行し、0キロポストのある杜松地下道(かつては踏切)の先で合流していました(請け売りですが)。その理由は、向きを変える特急列車が踏切を支障するのを避けるためとされています。
そんなことを頭の隅っこで考えつつ、杜松地下道から西大井に向かって歩いていると、意外な発見がありました。西大井のすぐ手前の加道橋ですが、
名前はご覧のとおり。下蛇窪です。
さらに歩いて、ホームの下を潜る細い道。
こちらは上蛇窪です。かつてこのあたりは荏原郡で、昭和7年に古くからの字名である上蛇窪と下蛇窪は上神明、下神明に改められます。大崎支線の開業は昭和9年なので、すでに行政上は蛇窪という地名はなくなっているはずですが、鉄道省は伝統のある地名を尊重したのでしょう。
歩いている時にそんなことは頭になく、西大井に到着。画面の右には日高屋が入っています。この駅の開業は品鶴線に横須賀線が走るようになってから6年後の1986(昭和61)年4月です。当時は本数の少ない横須賀線より、バスで大井町に出る方が便利だったのでしょう。
西大井のホーム。横浜寄りには踏切があります。
踏切から横浜方向を見たところ。しばらくは新幹線が真上を走ります。
駅名標。開業時、横浜寄りの次の駅は新川崎でした。
時刻表。日中の列車は概ね横須賀線4本、湘南新宿ライン2本で、後者は横須賀線に直通する列車のみ。つまり、ここは横須賀線の駅なので東海道線に直通する列車は通過するのです。
横浜寄りの上りホーム脇にはこんもりとした木立が見えていて、なんとなく気になっていました。
お寺かと思っていたのですが、線路寄りは小さな公園でした。
その左はなにやら立派な門構えで、脇には曰くありげな石碑もあります。
石碑のアップ。大勲位伊藤博文公墓所と刻まれています。中は公開されていないようです。
公園の塀の隙間から中が見えます。博文公の胸像がありますね。これで湘南新宿ラインの車窓から眺めていた疑問が氷解しました。
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蛇窪=西大井あたりはブラブラ歩くと面白いですね。鉄道がたくさん通ってるのももちろん、のんき通りなんて『お笑い3人組』の舞台になりそうな商店街があったりします。
投稿: Cedar | 2018年6月28日 (木) 14時46分
Cedarさま、
お笑い三人組、なつかしい番組ですね。まだテレビはモノクロでした。
投稿: モハメイドペーパー | 2018年6月28日 (木) 17時49分
立会川の道だけスルーですね。良く使う道路だけに残念。
しかし、西大井なんて半端な場所にどうして新設したのか。
私的には馬込橋あたりに作ってもらえれば・・・
投稿: シグ鉄 | 2018年6月28日 (木) 17時55分
シク鉄さま、
西大井は地元の請願でできたそうです。都営地下鉄から取り残されたという意識があったのでしょうか。
投稿: モハメイドペーパー | 2018年6月28日 (木) 20時21分