« 小田急と桜 | トップページ | ご近所の桜 »

2018年3月30日 (金)

昭和47年の鶴見線、海芝浦で下車

 鶴見線の海芝浦といえば、ホームから出られない駅として有名で、今でも時々ネタ切れしたライターが、いかにも知ったかぶりしてネットにアップしたりしています。ほとんどは請け売りの二番煎じで、恐らくご本人は現地に足を運んだことはなさそうなのが見え見え。一言いわせてもらえば、海芝浦なんてつい最近まで、平気でホームの外に出られたのです。論より証拠、昭和47(1972)年9月に撮影した画像をご覧ください。

P3225154まずは扇町方面と海芝浦方面が分岐する浅野。扇町行きの後追いです。

P3225155浅野に進入する海芝浦からの鶴見行き。1枚目の写真の右手にカーブしていて、私が立っているホームは扇町からの鶴見行きと海芝浦行きが一緒になって扇形をしています。

P3225156海芝浦行きが到着したので、これに乗りました。

P3225157海芝浦に到着。午後ですが誰もいません。電車はクモハ、クハとも元31系です。

P3225158こんな注意書きがありました。岸壁に出ると海に落ちます、は国鉄の掲示。東芝は一般の立入り並びに魚釣等はできません、と書いてあります。しかし、駅員はいないし、東芝の守衛所なんかもありません。線路に沿って広い道路があるので、浅野方向に歩いてみました。

P3225159乗ってきた電車が折返していきます。左は東芝の工場で、奥のカーブしたあたりから線路が引き込まれていました。塀の中にシキ(形式不明)が留置されていましたが、残念ながら写真は撮っていません。

P322516090度曲がってすぐのところが新芝浦。横断歩道に歩行者用信号があるから、ここは公道なのでしょう。

P3225161右に運河を見ながら歩きます。海芝浦行きが通過。今度は2両とも元30系。この頃は日中でも1時間に数本は海芝浦行きがあったようです。

P3225162浅野に近づくと怪しげな貨車が止まっていました。直通管どころか側ブレーキもないので、工場内専用なのでしょう。

P3225163また電車が来ました。4連になっています。左下の線路はNKK(日本鋼管)の工場に入っています。

P3225164今度はボギーのチキ。2両で台車が違います。

P3225165形式写真風に。

P3225166さらにもう1枚。台車が違うので都合3枚も撮ってしまいました。

P3225167浅野で1枚目の踏切を西側から。電車はクモハ11441です。

P3225168先ほどの4連が海芝浦から戻ってきました。この時の写真を見る限りでは、2連のクモハとクハは同形態(元30系、31系、50系)で揃っています。

P3225169ガスタンクをバックに扇町からの鶴見行き。退勤時間になったのか、そこそこ乗っています。

P3225170見慣れない貨車だったので1枚。カーバイト専用、昭和電工所有のホキ5600形です。

P3225171これは浜川崎でしょう。扇町行きの後追い。

P3225172ED1614。この形式で唯一のスノープラウ付きです。これで鶴見線の撮影は終了。

P3225173鶴見に戻ってきたら、時刻表に載っていない列車が来ました。新鶴見操車場の職員輸送に使われていたクモハ12013です。右端に専用のホームが見えています。

P3225174停車して職員が降りて来ました。

P3225175最後のコマは京急の品川。左の成田山号は平日には運転されないので、別の日の撮影と思われます。

« 小田急と桜 | トップページ | ご近所の桜 »

1/1 国鉄・JR」カテゴリの記事

コメント

とても懐かしい画像です! 海芝浦から新芝浦方面に歩いて行くと鶴見海岸支線に寄り添うように、東芝工場建物より何本かの線路が集まり新芝浦駅で合流していました。この線路は、戦前にこの建物で鉄道車輛を製造していた名残りです。主に電気機関車をしていたようですが、AB10形という蓄電池積載機関車のちにパンタを取り付けた2軸機関車2両がとても有名になりました。このほかには、当時の朝鮮国や満州国に多数の機関車を製造して後ろの岸壁から発送していたと父親から聞いた事がありました。現在の昭和47年撮影時は、鉄道車両製造は府中に移転して発電機製造に特化したようです。この搬送用の大型特殊運搬用貨車が、多数この引き込み線に置いて有りこれによじ登った覚えがあります。鶴見駅海側の貨物線線には、朝夕に画像のような操車場通勤電車が、単行で運行しておりました。クモハ12とクモニ13が交互に運転されており一番活気があった時代です。偶然に操車場が無くなる1週間前にこのホームより1往復運転手さんからのお誘いで乗車いたしました。

待ってました!
上述の方が仰る通り、鶴見工場は発電機製造。
亡父は発電機屋でしたので、まさにここに勤務していました。
当時(昭和40年代前半)は長閑な時代だった故、社員のガキも出入りでき、何度も遊びに行ったものです。
最後の1000、3000そろい踏みともども、懐かしい画像をありがとうございました。

岸壁に出ると海に落ちますさま、
このあたりで機関車作っていたのは戦前ですかね。私が小学校の6年くらいの社会科見学で東芝の府中工場に行き、製作中のEF58を見た覚えがあります。

シク鉄さま、
お父様の勤務先でしたか。発電機とか変圧器などの大物用に自前の貨車を持っていたわけですね。この時は買ったばかりのオリンパスM-1の試し撮りで、それほど鶴見線に思い入れがあって行ったわけではありません。

いやまあなんとも懐かしき映像にあの頃を思い出します。
貴重な記録に感謝感謝いたします。

モハメイドペーパー 様 お久しぶりです。私は昭和50年の8月に海芝浦駅で下車して、沿線で電車を撮りました。すると自転車で守衛が現れ、ここに入ってはいけないと言われました。なんか変な駅やなと思いました。昭和47年からの間に規則が変わったと思われます。
 その時縦型の表札みたいなのは撮っていますが、駅舎全景を撮っていませんでした。それが残念です。

OER3001さま、
その頃は取り敢えず撮っておこうかという感じで、46年後にどうなっているかなんて考えなかったですね。

レルフさま、
昭和47年でも工場敷地内だからという表示があるので、線路沿の道路は工場内の通路ということになるのでしょう。私の場合はたまたま守衛の目に留まらなかったからなのかも知れません。

ラストカットが懐かしい、成田山号は京成車が快特ダイヤに乗れない、とウワサになりましたね、当時の京成車の種別幕には快特がなく、快速表示だったこととか、メインで無いところでスミマセン。

Cedarさま、
ラストカットは結構うけています。乗り入れて来る京成車、夏ダイヤだと日中も逗子行き特急でこき使われていましたね。

浜川崎の、ED16の右側の線路がずっと気になっています。
私の昭和48年頃の写真でも3線軌条なのですが、何のための3線だったのかが皆目わからないのです。
比率から見て、ニブロクのようなのですが、、、

赤影さま、
確かにガートレールにしてはずっと続いています。しかし、よく見ればスパイクは枕木
2本おきくらにしか打っていない。車両を通すにはお粗末な気もします。 

”浜川崎の、ED16の右側の線路がずっと気になっています。”の画像、此のレールは、
”匐進《ふくしん》”防止の為に取り付けてあるガートレールでしょう。理由として考えられるのは、この部分から重量貨物列車が、出発到着時に列車の各車両の車輪のブレーキ力の反作用とカーブ抵抗で、軌条(レール)が、這うようにずれ込むので”軌条移動負担を減らす”為にレールを取り付け軌条固定を行うのに為取り付けけていると考えられます!

。乗り入れて来る京成車、夏ダイヤだと日中も逗子行き特急でこき使われていましたね。京成乗り入れ車両は6両モーター車のはずが、車両の運転台下部の台車は、モーターが無くトレーラー台車でした。結果前後1両分のモーター出力が,少ない為に、追浜から三浦海岸までの勾配区間の京浜車との力不足がたたり、勾配が少ない逗子線運用に差し替えました。

ガートレールですさま、
鶴見線ならではの特殊な条件に対応しているわけですね。

オレンジ電車さま、
京成の6M車はモーター出力を100kWにアップしているので、編成での総出力は同じ。従って運転性能も同じとされていますが、実際には雨天の時などで違いは出たようです。8M車でも高速での加速力が弱かったのは実感しています。

当時少ない車両数で、京浜本線”特急運用”をしていましたが、加速の良い列車が足らなくなり、乗り入れた相手の車両は初期製作時の当時75kWモーターを使用している車両で、運転課の担当がいつも”ぼやいて”いました。冷房更新時に100kWにアップしていると説明を受けた事が有ります。

オレンジ電車さま、
京成の8M車でモーターを取り換えた(出力アップ)という記録はありません。恐らく、絶縁更新、限流値調整などで実質100kW相当にしたということではないのでしょうか。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 昭和47年の鶴見線、海芝浦で下車:

« 小田急と桜 | トップページ | ご近所の桜 »

2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
フォト
無料ブログはココログ