京王帝都電鉄 昭和38年10月
昭和38年は京王帝都電鉄にとって大きな変わり目になった年でした。4月に新宿駅が地下化され、甲州街道上の併用軌道が廃止。8月に電車線電圧を600Vから1500Vに昇圧。これらを受けて10月1日にダイヤ改正を行い、新宿~東八王子間に特急の運転が開始されました。
その10月1日、高校3年生だった私は1日中、京王線の撮影をしていました。平日ですが学校をサボッたわけではありません。この日は都民の日で、公立、私立を問わず、都内の学校は休みになります。女子校はだいたい共同募金の街頭活動に駆り出されますが、男子校はそんなノルマもなく、晴天に恵まれた秋の1日を撮影に没頭できたのです。この日から5000系が営業運転を開始。4連の5000系と2連の5070系が3本ずつ揃い、10月1日は4連の2本が特急、1本が急行、2連は2+2が特急、残りはご覧のように2連で調布~府中間のローカルに入っていました。この場所は調布~西調布間です。
同じ場所で2600系の急行。新宿寄りに2700系を連結した5連です。当時の急行は府中以西の各駅に停車していました。5連はこの年の5月から登場しています。
特急の運用は5本必要なので、2010系も後期タイプをアイボリーに塗替え、特急に使用していました。場所は武蔵野台~多磨霊園、西武多摩川線をオーバークロスしています。
下を走る西武多摩川線。車両は西武生え抜きの151系。ガードの奥が北多磨(現在の白糸台)です。
先ほどの5070系ローカルが府中で折返し、上りホームに入ります。デハの台車は2700系から転用したTS101Aです。
分倍河原~中河原間、2000系の急行で、行き先は東八王子。この年の12月に少し移設して京王八王子に改称されます。2000系は昇圧で下り方のパンタは使用停止。まだ前照灯の2灯化と新宿寄りパンタの移設は行われていない、原型に近い姿です。
中河原を通過する上り特急。画面下が光線引きみたいになっているのは、現像時のミスによるものです。車号からもわかるように、5070系の2+2という編成で、足回りはもろ2700系、つまり吊掛式です。
このあと、この編成に乗りましたが、目一杯に走るTDK553の音は最高でした。 やっと真打ち5000系の登場です。場所は百草園~高幡不動だったと思います。パンタは小型車から転用のPS13というのが、当時の京王の懐具合を物語っています。
最後に高幡不動で出会ったデニ201。荷物営業の現役です。まだ動物園線は開業前なんで、駅の様子も今とはかなり違っています。
エコーモデルで製品化されそうな南平駅。府中以西で特急の止まらない駅は、だいたいこんな感じでした。停車する電車は20分に1本です。
*今週末の18・19日はトレインフェスタ参加のため、次のブログの更新は20日以降になります。
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こんにちは。
古き良き京王帝都のお写真、楽しく拝見させて頂きました。
昇圧の頃、まだまだ今のようには沿線の人口も多くはなかったと思いますが、限られた財源の中で最大限の投資をしていたのだろうと思います。
旧型車の車体、部品共に活用して、極力イメージアップを図った車両を多く揃えようとしたのでしょうね。
私は幼かった頃に京王線の沿線におりましたが、6000系が主役として活躍していた時代でした。既に当時のアイボリーの車両はいなくなってしまいましたが、今も私の中の京王線のイメージは変わらないままです。
社名から帝都が消えたときには、この会社の歴史の一端が失われるような気にもなりました。
今の、10両編成が頻発運転で走る様子は、お写真の頃からは想像がつかなかったものと思います。
私自身も、下り列車に乗ってどこまでも住宅が続く様子に、随分東京は大きくなったものだと驚きました。
楽しませて頂きました。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
投稿: 風旅記 | 2016年6月25日 (土) 13時41分
半世紀もたてば変わって当たり前かも知れませんが、京王線の神事行くが地下になった頃、そこに20m車の10連が発着するなんて想像すらできませんでした。まだカメラも標準レンズだけで、回りの情景も写り込んでいるのが、記録としては貴重になりますね。
投稿: モハメイドペーパー | 2016年6月25日 (土) 14時49分