京王線は昭和38年4月1日からまず甲州街道を
走っていた併用軌道区間が地下化されました。
これはその直前、2月頃の撮影です。
甲州街道から新宿駅を見たところ。現在の
京王デパートの角あたりになります。この頃の
ホーム番線は国鉄からの連番で、小田急が
9~12番線、京王が13~16番線でした。14番線
から東八王子行きの急行が発車したところです。
方向板の文字は読めませんが、△は新宿~
東八王子、八角形は新宿~高幡不動、◯は
新宿~府中というように区別されていました。
同じ場所からの初台方向です。バスの後方に
見えているのは文化服装学院の円形校舎で、
この頃のランドマークでした。京王の技術関係の
社員は、電磁弁とかスライダックと呼んでいた
そうです。
甲州街道上から東口方面を見たところ。国鉄を
跨ぐ部分は拡幅工事の真っ最中です。左の建物
が今のファーストキッチンの位置です。電車は
2010系の1次車で、旧型を改造したサハを組込ん
でいます。
2010系の快速京王多摩川行きです。前面に
架線柱の影が落ちているのはこの際無視して
ください。撮りたかったのは電車のちょい前に
あるカーブ半径を表す標識なのです。
なんと半径95m。普通はかなりきついカーブと
いっても160mくらいですから、恐らく本線上では
最も急なカーブだと思います。地下化で多少緩和
されましたが、それでも110mでしたから、ここを
20m車が通過するなんで、とても想像できなかった
のです。
昭和38年の2月頃、小田急電鉄東北沢での
撮影です。この駅はホームが副本線(待避線)
だけという、当時の私鉄では珍しい線路配置の
駅でした。最後の1枚を除き、午後に上りホーム
から下り列車を撮影しています。
三菱の大型パンタ(S-514)を乗せ、まだ原型
の雰囲気を残している1600形。ラッシュ時には
2連で1900形の増結用に使われることもありま
した。1900形より車体が少し短く、その分軽くて
加速がよかったですね。
元特急用の1700形。前面2枚窓、張上げ屋根
で登場した1705-1706編成です。更新されて間も
ない頃で、前面は貫通タイプ、アルミサッシがよい
アクセントになっています。
ゲルリッツ式の台車(FS-108)で乗り心地は
よかったけど、自重が重くて加速は悪く、運転士
泣かせだったようです。
御殿場線直通の特別準急(ゴテ準)のキハ
5100形。ヘッドマークの文字はよく読めないけど、
撮影時刻から推測すると「芙蓉」だと思われます。
平日の列車はほとんど1両で、下りは新宿を
特急の1分後に発車していました。
知る人ぞ知る、小田急の名物列車といえる
新聞電車です。夕刊輸送用に下りのみ2本
設定されていました。1本目は3連で13時過ぎ
に新宿発。相模大野 以遠に配送するので、
同駅で2両は小田原線、1両は江ノ島線に分割
します。
後の1両はデニ1100形ですね。もう少し後に
なると、デハ1300形の3連(ZXY運用)になります。
ちなみに2本目は15時頃の発車で相模大野まで
の配送。車両はABF、1800形などの2連が使用
されていました。
この写真の左上の方、本線から分かれている
線路が見えますが、砂利取り下ろし用の側線です。
最後は下りホームからで、通過するのは
デビュー間もないNSE(3100形)です。という
のは改めて説明する必要もないでしょうが、
問題は待避している列車の方なのです。窓の
大きさから1900形だというのは容易に想像
できるでしょう。お、1914の編成かとわかる人は、
かなりの小田急マニアです。
この車両はいろいろわけがあって帝都電鉄
から流れ着いたデハ1501-クハ1551を更新
名義で1900形に編入したものです。なのでこの
写真からわかる範囲でも、クハの台車がTR11
(改造当初はKS30L)、デハの台車が平軸の
KS31で制御器がCS-5とう違いがあります。
なお、1501、1551の車体はデユニ1001、1002
に転用されています。
切符の蒐集は私にとって本命ではありま
せんが、身近なところのものは文字どおり
記念品として買っていました。その中で一番
古いものから数点をご紹介します。保存状態
は最良とはいえず、折れたりしているものも
あります。
この頃の記念切符は大半が新線開業に伴う
もので、高額なセット販売はなく、ほとんどが
1枚ものでした。
手元にある中で一番古いものです。上は
地下鉄丸ノ内線が新宿まで延長された時の
もので、赤坂見附で銀座線との乗換えができる
ようになりました。
今なら当たり前ですが、地下鉄同士の乗換駅
はこれが最初で、方向別に上下2層になって
いるのが話題になりました。銀座線の開業時から
赤坂見附駅は将来を見越した2層構造で造られ
たというのも驚きです。
この頃の地下鉄はまだ全線均一運賃なので
下車駅での集札は行わず、改札口に使用済み
切符を入れる箱が置かれていました。だから
使用済みの記念切符も簡単に持ち帰ることが
できたのです。
下は日比谷線が最初に開業したときのもの。
東武、東急との相互乗入れのため、営団地下鉄
で初の1500V・架線集電になりました。ATCも
採用され、世界最新の電車という文字が誇らしげ
です。3000系の運転台は寒暖計を横にしたような
速度計が珍しかったのを覚えています。
こちらは都営地下鉄1号線(浅草線)人形町~
東銀座間開業の記念切符です。いずれも切符
部分は切り離されているので、マニア的には
価値がありません。大きいのが地下鉄用、他の
3点は都バス、都電、トロリーバスのものです。
たいした金額ではないので、もう1セット買って
完全保存しておけばよかった、というのは後の
祭りです。
これは相模鉄道の保有車両100両突破を記念
したもの。100両のうちの半数以上を6000系が
占めていたはずです。日付が図柄に印刷されて
いますが、その日に売れ残ったのはどうなったの
でしょうか。
初めてカメラを使ったのは小学校6年の
修学旅行の時(昭和32年)で、そのカメラが
奇跡的に残っていました。
これです。
ケースはだいぶボロボロですが、中身は
原型を維持しています。私の父が使っていた
もので、この時代の子供用カメラとは違い、
金属製です。昭和20年代後半の製品と思われ
ますが、今でもメッキは綺麗だし、全体にしっかり
した造りです。
BOLTAX(ボルタックス)Ⅲという名前のよう
ですが、Ⅰ、Ⅱはあったのでしょうか。
図面風に前、後、上、下を撮ってみました。
横幅がほぼ8cm、重さは約193gです。
レンズは40mm・F4.5、恐らくトリプレットタイプの
3枚玉でしょう。シャッターは2枚羽根でB(バルブ)
と1/25、1/50、1/100秒、向かって右側がチャージ
レバー、左側がレリーズレバーです。
距離は目測ですが、前玉回転式ではなく、
スクリュー式でレンズ全体を繰り出します。
一番繰り出すとかなり出っ張ります。
フィルムはボルタ判を使います(今は発売
されていません)。リーダーペーパー付きで
約24×24mmの画面が12枚撮れました。ライカ
とは逆に軍艦部を取外して装填します。
背面も開閉式で、これは1枚目の位置を確認
するためだったと思います。
というわけで、レンズは少し曇っていますが、
シャッターはちゃんと作動するので、フィルムさえ
あれば、撮影は可能です。
35mmフィルムも装填できますが、フィルムの送り
が確認できません。ダメモトで遊んでみるのも
おもしろそうです。
私、中野区民ですが最寄り駅は中央線の
高円寺です。複々線になる前の中央線は
地平を走っていて、阿佐ヶ谷寄りに折返し用
のY線がありました。
複々線工事が始まるとこのY線を撤去して
下りホームを阿佐ヶ谷寄りに移し、元のホーム
跡に高架用の支柱が建ち始めました。
昭和37年8月(詳しい日付は不明)、明日
から下りホームは仮ホームに移りますという日。
つまり、本来の下りホーム最後の日の高円寺駅
南口(下りホーム)です。すでに駅名の表示は
取り外されていました。
これは昭和38年になってからですが、移設
された下りホームからの撮影。元のY線が下り
本線になっています。上りホームのバックに
見える建物は東急系の東光ストアです。
これも昭和38年春頃、上りホームからの撮影。
高架の支柱が建ち並んできましたが、まだ元の
下りホームが残っています。
昭和37年、私は高校2年でした。我が家にあった
カメラは距離計のない6×6判のスプリングカメラ
だったので、ピンボケの連発。35mmカメラは借り物で、
シャッタースピードも最速が1/300秒しかなく、走る
列車を撮ると大部分はブレていました。まぁ、それ
以前に腕も未熟だったわけですが。
これは中央線下り緩行が信濃町に到着する寸前の
スナップ。当時の緩行は基本6両の千葉寄りに付属を
2両連結していました。私が乗っていたのは後ろから
2両目ですね。リベットがあるからクハ16かクハ55で
しょう。基本編成も4両目がサハ57、6両目がクハ16の
ようです。
併走する快速は101系、非冷房なんで窓全開です。
昼間、6連で走っていた緩行は、夕方のラッシュに
備えて15時過ぎ頃から付属編成を増結します。写真は
中野駅の1番線で増結車が一旦停止したところ。
クモハ73の運行番号表示窓が2桁だから、関西からの
転属車かも知れません。
地下鉄が一番高い所を走るので有名な渋谷駅。
バスの車内から撮ったようです。車両は左端が1600形
か1700形、2両目は1500形でしょうか。この頃の渋谷は
東横百貨店以外に高層建築は見当たりません。
ま~るいみどりの山手線…のコマソンで有名な
ヨドバシカメラが新宿にオープンしたのは昭和42年。
今のカメラ館の裏あたりで、間口は1間くらい、
ちゃんとした店舗ではなく、怪しげなバッタ屋のような
雰囲気でした。
そのヨドバシカメラの店頭に置かれていたのが、
黄色の紙に印刷されたヨドバシカメラ特価表です。
新聞紙大の1枚もので、取り扱い商品すべての正価、
卸価、ヨドバシ特価がびっしりと印刷されていました。
手元にあるのは昭和50年4月発行なので、もう今の
フィルム館の所に、スーパー方式の店舗ができた頃
かと思います。ちょっとその内容をアップしてみましょう。
まずは印画紙、私も三菱の月光にはだいぶお世話に
なりました。オリエンタルのシーガルなんかも好きだったな。
フィルムはネガカラーがかなり普及してきています。
まだサクラの24枚撮りは発売されていないようです(4枚
増えて値段は同じ。どちらが得か、よく考えてみよう。と
いう萩本欽一のCMで有名になりました)。
この頃、ヨドバシではライオンという自社ブランドで
暗室用品なんかを販売していました。カラープリントが
まだ高価だったので、自分でできるプリントキットが
結構人気がありました。
カメラはどうかというと、キヤノンのF-1ボディーが
正価で10万ちょい。ミノルタとかトプコンとか、今はなくなった
メーカーも載っていますが、なぜかニコンはありません。
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